1.労働組合活動のはじまり
 1960年代初頭、食生活の洋風化を追い風に乳業各社は増産体制の設備投資を競い、明治乳業も巨大工場を次々と建設し、高校新卒の労働者を全国から採用します。しかし、労働条件は極めて劣悪でした。例えば、7畳半の部屋に4名も詰め込むタコ部屋状態の寮生活。早朝6時から深夜を含む複雑な交替制勤務や冷蔵庫職場などの重労働の中で、20歳前後の若い身体が腰痛、胃腸障害、ノイローゼ等に次々と蝕まれ、500名程度の市川工場で18名に1人が疾病に苦しむ深刻な事態でした。若い労働者らは、身体を守り人間らしい生活に近づく事をめざし、必死の思いで手探り状態から労働組合活動を始めます。

劣悪な労働条件のもと、人員整理か生産効率の5倍化を迫る大「合理化」強行
 
 明治乳業は、劣悪な労働実態をよそに「企業間競争の激化」を理由に、「人員整理か生産効率のアップか」の二者択一を迫り、会社に迎合する組合本部との合意を盾に生産現場を無視し、市川工場では376名体制の生産ライン(昼勤+夜勤)から一気に107名もの人員削減を強行。そして、余剰人員として現場を追われた組合活動家らは「青空部隊」と呼ばれ、敷地内のゴミ拾い、草取り、ドブ掃除、ペンキ剥がし等の、嫌がらせが執拗に強いられたのです。

「働く者の暮らし・権利を守ってこそ労働組合」の旗を掲げ全国各地で奮闘
 
 労働者らは、会社の攻撃に抗して全国各地で頑張りました。市川支部でも労働条件の改善、賃金の引き上げ要求、地域の仲間との連帯、平和・民主主義の課題、文化・スポ―ツ要求など多彩な課題を掲げ旺盛な活動を展開。労使協調路線で職場労働者の要求を無視する労組本部に反対し、その方針転換を迫る気運が全国的にも大きく高揚したのです。

 

2.分裂攻撃、人権侵害

本社指揮で分裂攻撃・人権侵害を強め、全国的にユニオンジャックを強行
 
 組合活動の高揚に危機感を深めた明治乳業は、1966年頃から本社指揮で一気にインフォーマル組織を結成。例えば、戸田橋工場=戸田橋民主化同志会。市川工場=明朋会。石川工場=明友会。静岡工場=富士見会。大阪工場=志宝会。京都工場=都会。愛知工場=一水会。福岡工場=明和会など等。そして、労働者を「紅組」「白組」「雑草組」に分類し、労組役員選挙では昇給や仕事差別などを脅しの武器に、どの集団に帰属するかの踏み絵を迫ったのです。「赤組」の労働者には、職制らを先頭に「赤い水虫」「赤いゴキブリ」「生産疎外者」「職場秩序破壊者」などの罵倒を浴びせ、人権蹂躙と差別の限りをつくすのでした。

 

3.全国各地の闘いの経緯

仕事・身体・そして人権を守る闘いが全国各地で激しく闘われる

 明治乳業で、1960年代から労働委員会や裁判所で争われた主な事件は以下の通りです。

@ 昭和38年、戸田橋工場(埼玉県)で残業を強要する「勤務命令簿」を焼却し懲戒解雇。東京地裁で争い「解雇無効」の判決で和解勝利解決。

A  @と同時期、帯広工場で本採用を前提に働きながら、臨時職員の権利を守る活動を行っていた女性臨時者が、「上司に逆らう」との理由で不採用となり地裁、高裁と争う。

B 昭和41年、戸田橋工場で夜勤労働者が200Vに感電する事故発生。会社の安全軽視に多くの労働者が早退して抗議集会を開催。その責任で支部長と書記長が懲戒解雇。東京地裁で争い、支部長が敗訴、書記長が勝訴。その後、双方とも和解解決。

C 昭和49年、福岡工場の食堂で昼休みに、政党から依頼の選挙用ビラを組合役員が配布。会社は、無許可ビラ配布の「就業規則違反」として戒告処分。一審から労働者が勝訴、最高裁でも「職場秩序を乱す恐れはなかった」として処分無効の勝訴確定。

D 昭和49年、岡山工場の労働者が、人事考課制度を悪用した組合役員差別の是正を地労委で闘う。私病による休職後、会社の職場復帰拒否を克服し復職の勝利和解で解決。

  1.  昭和50年、大阪工場の労働者3名が、思想差別の撤廃を求め地裁に提訴。11年余の闘いを経て地裁で勝利和解。さらに、同工場で働く女性組合活動家の差別・排除を狙う会社は、一人の女性を長期に下請会社のプレハブ小屋の一角に隔離管理。国会での追及と全国的な支援で、11年半ぶりに隔離部屋から職場復帰を勝ち取る。

 

4.市川事件と全国事件の2つの闘い

1985年、明治乳業の異常な企業体質の根幹に迫る闘いとして決起

 経験交流と共同闘争の中で「全国連絡会」を組織し、明治乳業の不当労働行為・差別政策の根幹に迫る全国的な闘いの準備を始め、1985年4月に市川工場の32名が都労委に申立て。続いて、1994年に、「全国事件」(9事業所32名・根室、埼玉、茨木、静岡、愛知、石川、京都、大阪、福岡)が申立てを行い、全国的な大型争議として闘っています。

都労委の異常判断が「事件の顔」となった市川工場事件の審理経過

 イ、1985(S60年)申立、1996年(H8)に棄却・却下の不当命令となった市川事件。命令は、@申立人らが「企業内苦情処理委員会」を活用しなかったこと。A新職分制度移行時の「移行格付け試験」を不受験であったこと等を理由に、格差や不当労働行為の判断を回避。11年余(66回審問、証人20名)もの審理を行いながら、事件判断に欠かせない事実認定を放棄し、門前払いの不当命令を交付。

 ロ、2002年(H14)の中労委命令は、労使双方から証人6名(8回審問)の審理を行ったが、都労委の判断構造を前提とした棄却・却下の不当命令を交付。

 ハ、東京地裁では、「試験制度によるコース別人事管理を前提としても、集団間には不当労働行為を原因とする深刻な格差が存在する」ことを、豊富な証拠に基づき3証人で改めて立証しました。しかし、2004年(H16)の判決は、格差の存在を一部認めながらも、「・・原告ら主張の格差は順次縮小・解消している」等と事実を誤認し、中労委判断を是認する却下・棄却の判決を交付。

 ニ、東京高裁では、地裁の「格差が順次縮小・解消」との事実誤認を重視し、賃金・職分実態の資料開示を会社に迫る救釈明を申請。高裁は、「当審における新たな争点」と位置づけ、資料提出を会社に命じる決定を行う。会社提出の資料分析を土台に、3証人で集団間格差の立証とその原因を証言。さらに、戸塚元労働者委員の同種事件との比較証言などで、明治乳業の異常な不当労働行為意思の立証に成功。
 2007年(H19)の高裁判決は、結論は控訴棄却ですが、事実認定で@申立人らの集団性、A集団間の「有意な格差」、B格差の原因について「控訴人らの主張を妥当するとみる余地はある」とする等、この種事件の判断要件を満たす内容です。
  しかし、判決は、不当労働行為救済制度の趣旨よりも、「除斥期間」の趣旨を機械的に適用し、「そこまで遡って審理・判断しなかったとしても、中労委の裁量権の行使に違法はない」等と、格差を認めながら救済への審理・判断を放棄します。

 ホ、最高裁では、2009年(H21)2月の不受理決定までの1年8カ月、「上告受理・弁論開始」を求め全力で闘うが、不当判決がだされ敗訴が確定します。

 

5.二本柱の闘いに全力

@ 「有意な格差」を明確にした高裁判決の事実認定を武器に会社に迫る闘い。

 最高裁の不受理決定と同時に、東京高裁判決の事実認定も司法判断として確定します。有意な格差の存在、すなわち、「支払われなかった差別賃金」の存在は明らかであり、「古い時代の格差」との司法判断は、当事者間には通用しません。「未払い賃金の清算」を含め全面解決の決断を、明治乳業と「明治HD」に迫る闘いは極めて正当な要求です。

A都労委「全国事件」は、明治乳業の不当労働行為を許さない最後の闘い。

 明治乳業は、高裁判決の「控訴棄却」の結論だけを御旗に一切の解決姿勢を示しません。争議団は、不当労働行為・差別の「やり得」は絶対に許さない決意で、都
労委の全国事件を全力で闘っています。現在、2年間程度の審理計画で証人尋問が
続いていますが、会社包囲を決定的に強め、一日も早く都労委を舞台に解決局面を作り出すことをめざします。

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