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=たたかう明治乳業争議団の仲間たち=
(モノクロ写真は故人)

根室工場
間宮英勝

守谷工場
岩本哲男
大森憲章
加賀屋武喜
加藤繁敏
菊池政次郎
斎藤忠義
櫻井隆夫
櫻井伸彦
高橋克己
福島則寛
山崎文明
吉村 武

千葉明治
平木洋一
福井康良
米元 裕

関東工場
岩崎 弘
遠藤 力
久保政宣
古小高弘則
小関 守
佐藤正巳
三田地実

旧市川
伊藤 満
荒木貞夫
橋本勝男
沢口 昇

石川工場

静岡工場

愛知工場
長谷川博男

京都工場

大阪工場
細木茂樹
佐伯克己
嶋崎又一郎
福泉哲夫

福岡工場
高木寿春
日高義文


=団員リポート記=
(争議団ニュースから転載)

矢口正明(都労委申立全国団長)

 99年11月、戸田橋工場(現関東)定年。一貫して働く者の立場で組合活動に参加。誰にでも面倒見がよく職場での信頼は厚い。支部が乗っ取られた後も職場代議員で奮闘。60年代の分裂工作の粗しの中では、仲間の労働者3人と生産ラインから外されリヤカーを引いて工場内外の掃除、ドブさらいなど約1年間嫌がらせにもめげず頑張り抜く。
 自他共に認める酒豪で酒にまつわるエピソードや武勇伝は数知れず。(詳しくは本人から!)定年後に運転免許を取り、愛娘さんからお下がりのポンコツ車で、大好きな酒も控え埼玉県内をオルグで走り回っています。(都内はまったく自信なし、同乗者くれぐれも気をつけて!)
 地元、「浦和レッズ」のサポーターで、美人の奥さんと時々応援に駆けつけている。

桜井隆夫(審問対策部長)

 62年3月、長野県佐久を後に希望を抱いて市川工場へ入社。
 田舎に錦を飾る夢も消える程の労働条件、長時間労働の毎日だった。山登りで鋭気を養い、酒量な底なしで、夜を徹して職場の諸問題を語り明かす熱血漢、曲がったことにはとことんスジを通す筋金入りです。その正義感が審問対策部長としての適役をこなす。
 労働委員会審問には、自ら証人に立ち、格差の存在を立証するも不当な命令。東京地裁で行訴に破れるも、高裁で求釈明を勝ち取り、「新たな争点」とした弁護団との緻密な議論から実質審理を勝ちとる。7月19日には、差別のメカニズムを解き明かす決意をしています。
 常に団員の絆に心を砕き、団員の声に気軽に応じる「いい奴」です。

二口直勝争議団事務局長が急逝

 争議団事務局長として、主戦場である首都圏での闘いの要を担うため、石川県から単身赴任で奮闘していた「直さん」こと二口直勝氏(64歳)が4月3日東京駅で倒れ、翌4日に「虚血性心不全」で急逝されました。豪快に酒を飲み、笑い、手振り身振りで熱弁を振るい、どんな困難にもリンとした政治姿勢を貫く姿は、まさに争議団活動の要でした。「今年こそ解決局面を造る決定的な年に」と奮闘中の矢先であり、無念の思いは尽きません。
 争議団一同、故人の遺志を受け継ぎ奮闘する決意です。ご冥福をお祈りすると共に、ご支援を頂いている皆様へのご報告と致します。

野村 茂(常任委員)

 愛知工場の職場で、職場代議員・支部役員選挙に立候補し、職場要求実現の先頭に立つと同時に、96年に都労委への第二次提訴団に広中正治、長谷川博男と共に加わり、愛知県を軸に奮闘中。今年の1月に2人を残して定年退職。
 地域の中で「一宮みんなの会」「憲法9条を守る一宮市民の会」「年金をよくする尾西の会」などへ頑張りを見せている。
 山が好きで、労山に入って9年、県連の登山学校に入校し、運動の理念からリーダー論、計画、地図・気象などの読み方、技術を含め総合的に学び、今後の活動に「完全登山」の一役を担う頼もしい山男です。
 趣味は、「写真」、自然に接しお花に出会い写真に収めるときが一番嬉しいそうです。もう一つは、愛する奥様が働いているからと言いますが、実は「主夫をする」ことだでそうです。エプロン姿が良く似合います。

村山東男(後任事務局長)

 62年3月、茨城県の高校を卒業し、明乳石岡工場に勤める兄のすすめで市川工場へ入社。家族を通じた攻撃にも屈せず、劣悪な労働条件を改善するために、若いエネルギーを組合活動に全力投球。
 明るく元気で陽気に闘う姿に職場女性から好感を持たれ職場結婚。2男1女を得る。
 趣味は、旅行・登山など多彩だが、多忙で思うように出来ないのが悩み。争議解決の暁には思う存分やってみたいと本人の弁。定年を迎え60才の手習いでパソコンを独学し争議の闘いに貢献している。
 22年の長期争議のなかでも一貫して争議団の要職をこなし、職場や地域で明治乳業争議団支援の運動をねばり強く進めて来ている。
 今年6月の争議団常任会議において二口事務局長亡き後の全国争議団事務局長に満場一致で仙人されました(総会事後承認)
 明るく元気に闘う争議団の象徴として、多くの争議団員から期待されています。

大井 修(争議団副団長)

 大阪15人の原告団を束ねて、大阪争議団の団長もつとめる。
 皆から「大井ちゃん」と呼ばれ慕われる長野県出身の河内のオッチャン。会社・「志宝会」と激しく争った時代に支部長・執行委員と常に組合支部の要職を勤め続けた。支部を乗っ取られた後も毎年組合役員に立候補を続け、常に論戦の中心となってきた。「大井ちゃんが発言するうかせんかで支部大会の終わる時間が変わってくる」といわれた程。
 先日行われた大阪争議支援チアリングフェスタでは寸劇「姉チャングムの誓い」にも挑んだ。最近は必要にせまられて、パソコン・メールも使いこなす(?)
 困った時の「大井ちゃん頼み」で、あれもこれもとあの細い両肩に背負って頑張る。
 2002年10月に定年を迎えたが「争議が解決した時が本当の定年」と自分に言い聞かせ、奥さんや家族に支えられながら飛び回っている。

中村利博(常任委員)

 鹿児島県出身。高校時代バレー部で活躍中、「東京オリンピック」の聖火リレーメンバーに選ばれ川内市内を2km走りいまでも誇りとして自慢する。
 昭和46年、愛知工場に入社し、その年に石川工場へ転勤。名古屋駅で見送ってくれた主任・中山悠氏(現会長)が餞別としてくれたのが19歳の青年にタバコだった、それから喫煙がやみ付きになり現在に至っている。
労音サークルなどから社会の矛盾を知り、職場内外の活動を通じ奥さんに一目惚れと頬を緩める。
 乳児保育園建設に参加、学童保育石川連絡協の役員となって、県内(5市5町)で12箇所の発足に尽力、保育(風の子クラブ)運営委員長12年を務め、2005年金沢市長から永年勤務「感謝状」を授与するなど素晴らしい運動家です。
 職場では、釣り部の副会長として愛好家を束ねてきたが、釣果は(故)二口さんにはどうしても勝てなかったとか。40年来の兄弟付き合いの「直さん」の口癖、「どうしてもかたな(勝)アカン」の遺志を受け継ぎ、奥さんの支援を満身に受け気持ち新たに頑張ると運動を広めている。

後藤春士

 昭和37年入社、当時日給300円、月7500円の中から寮費6500円と社会保険料などを差し引かれると赤字になる。
 これには、大企業に入社したと喜んでいたのにビックリしたとな、と彼は振り返る。そして、労働者のために働かん職制の組合支部長リコール運動に参加し、これ見事にリコール成立したと。
 以降、数々の労働条件や福利厚生施設の改善を勝ち取る成果を上げたと自慢する。
 多くの信頼を得て、昭和50年まで福岡支部の支部長など三役を努め更に信望を厚くいただいたと語る。このような彼に会社は嫌悪感を露わにし、昼休みの時間帯に政治活動のビラを配布したとして、「懲戒処分」をかけてきた。同時に、大量の職制を関東・関西から(インフォーマル組織経験者)を転勤させてきて、組合支部を乗っ取り会社言いなりの支部に変質させよったと振り返る。
 彼は、自由時間における権利を求め、「処分撤回」で最高裁まで闘い、全国の労働者・地域から支援を得て、「昼休み時間の政治活動は自由」の画期的判決を勝ち取り全面勝訴したと満面の笑みを見せる。
 いま、申立てている都労委審問で、「不当労働行為」の立証をてぐすね引いて待っている彼は、調理師の免許を取り、酒の肴をつくっては連日友人達と、酒を酌み交わしている豪傑者だ。
 ソフトボールで(相手弱いチームの時だけ選手)健康な身体をつくり、明治乳業の90周年、100周年まで闘ってお祝いしたいと思っている彼は、本当によかとな。

酒井俊二(常任委員)

 昭和40年静岡工場に入社、当時の入社試験に使われた机は「卓球台」だったとは驚き。「寮完備」だったが民家に8人、2食付が1週間後に朝食は牛乳1本とパン1個に変身と振り返る。野球部・柔道部で鍛えた体力を買われ冷蔵庫職場に配属され腰痛が「持病」になったと。
 福利厚生も作業環境も最悪な状態から、「職場要求」を掲げ、多くの仲間労働組合運動へ活発に参加した結果、「話をするな」「親しくするな」と監視、「村八分」にされた悔しさを滲ませた。彼の仕事振りや改善提案等の実績から、彼に聞けば何でも解るとまで職場の仲間から信頼されていきた。
 一方、全国野球協議会の役員として、「スポーツ・君が主人公」「スポーツは平和とともに」のスローガンを掲げ、静岡で野球の普及と愛好者間の交流・親睦に力を注いでいる。昨年11月、地元で開催された「第40回全国軟式野球大会」で、見事に運営委員長の大役を果たしたと誇らしく胸を張った。
 昨年10月定年退職、ならず者のレッテルを貼られたまま人生終われないとし、都労委闘争の1人として奮闘している。今一番心している事は、苦労かけた奥さんと旅行すること。プロゴルファーの息子の夢、自分のレベルを上げて一緒にラウンドする事。頑張れ!

井村隼啓(事務局次長)

 元、明治乳業労働組合関西地区執行委員の経歴を持つ井村さんこと「イーサン」というニックネームで慕われている。労働組合活動では青年婦人部のリーダーで青年のころから歌声、バンドサークル・ギターマンドリンサークルの中心的活動家であった。
 日本の歌声祭典では創作曲で参加したり、当時、食品労連の仲間の中でも集会、デモ、ストライキなどでその指導的役割を果たしてきた。その力量が、昨年の本社座込み行動の「ちんどん屋」クラリネット奏者に、「ガンバロウ」の音符を白紙に書き上げ、奏者も見事に吹奏し大合唱となった。
 会社では、事務職場に勤務し職場要求を一貫して掲げ奮闘する「イーサン」に対し、会社は、職場から孤立させる攻撃をかけ、倉庫での入・出庫業務や売店業務などさせてきた。この様な攻撃を跳ね返し、大阪で「思想差別」の原告の一員として奮闘。大阪地方裁判所において、差別是正の和解を勝ち取った。
 その後、「賃金・昇格差別」是正への市川工場、全国の闘いの導火線の役割を果たし、自らも申立人。
 現在、大阪では地域労働組合の役員として経験を生かし、労働相談に団体交渉にと連日奮闘中です。

福島則寛(都労委申立人)

 埼玉県内で酪農を営む実家、乳搾りを家業とするも明治乳業市川工場入社。青年労働者が多くサークル活動も活発、組合の要求でテニスコートも完成、当時は花形スポーツ、彼の腕前は上々でコートの中で光っていました。田舎の自然に育まれた彼は「市川労山」を結成、幹事として「千葉県労山」でも活躍し、会議や山行きを通じて、とても素敵な奥さんを「頂上制覇」してしまった。
 一方、労働組合役員選挙で選管委員に選任されたが、開票のより分けだけ、疑問の「アンチョコ」用紙等の確認は、数名の選管役員が仕切っていたと不正に怒りを隠さない。
 1994年に全国9事業所32名の一員に「都労委」に申立て、先ずは市川事件勝利にと奮闘、控訴棄却だが事実認定を武器に「都労委」で勝利をと駆け回る毎日だ。

伊藤武治(都労委申立人)

 大阪争議団の「ご老公」、伊藤さんは実に多彩な才能をかくしもっている。先ずは生け花、未生流の免許皆伝の腕をもつ。かつて組合大阪支部で生け花サークルの中心として、若い女性労働者を集めて指導にあたった。一方で、お茶をたしなむ。かと思うと、詩も書く。伊藤作詞、井村作曲で「起ちあがるあいつ」という歌をつくり組合支部の文化祭で発表もした。
 時間をみつけては、「へぼ将棋」に熱中する伊藤さんは、みかけによらず、「文化人」である。
 支部の代議員会副議長をつとめるなど、常に支部の運動の中心で活動し、幅広い仲間から信望を集めていた伊藤さんを会社は徹底的にマークし、差別し続けてきた。窓掃除、床掃除、ペンキ塗り、ドブ掃除、パレット修理、こんな作業の毎日を耐え抜き闘い続けてきた。
 昭和50年から11年半にわたって大阪で争われた「思想差別」裁判の原告としてたたかい、差別是正の和解を勝ち取った。そして今日、全国争議の申立人として再び争議を闘っている。
 最愛の奥さんに先立たれてからは、「主夫」もこなしながら、その才能はカラオケに、卓球(ピンポン?)にとさらに広がりをみせており、争議に、地域活動にと多忙な毎日を送っている。

岩崎 弘(常任。都労委申立人)

 昭和33年戸田橋工場(現関東工場)に入社しました。
 入間市からの通勤は時間を要し、常に読書(本の種類はいろいろ)にふけり知識を養っていたように感じられました。
 労働組合活動では、山岳部に属し活動、南・北アルプスを軸に遠く北海道旭連峰迄出かけ、自然の中で交流を広めていました。自然に向けるカメラアングルは、「みる人が見れば?」心の奥深く訴えるものがあります。特に、モノクロの作品は「県展」で何回も入選する腕前です。
 自然を愛し、職場を大切にする思いから職場代議員として長年活躍、会社の攻撃が強まる中で、同数票の決選投票で敗れる(残念)。
 常任委員としての任務は、団体署名対策部の部長、自らの都労委闘争を含め、奥さんの理解を一身にうけエネルギッシュに奮闘しています。

佐伯克己(都労委申立人)

 大阪争議団員の中で一番の若手なのに何故か、「あんちゃん」と呼ばれ慕われているのが佐伯さんだ。常に冷静で、物静かにコツコツと仕事をこなす、かと思えば言い出したら自分の意思を曲げないガンコさも併せ持つ。記憶力で彼の右にでる者はまずいないだろうと言われるほどの才能を備えている。派手に立ち回る方では決してない。どんな時でも周りに気を配りながら人をまとめていく。「あんちゃん」と呼ばれる所以はこんなところに在るのかも知れない。
 在職中は、関西工場の製造現場はほとんど回ってこなして来た。その間、職場代議員を歴任したり、執行委員に立候補するなど闘い続けてきた。一方で、職場の先輩が共産党から市会議員に立候補し当選してからは、ずっと後援会の事務局長として議員活動を支え続けてきた。
今は、プロ写真家である息子さんにくっついて写真を撮りに出かけたりもするが、なかなかお褒め言葉はもらえないとぼやく。
 お母さんの面倒をみるため、まもなく岡山に帰ることになる。争議団の拠点が岡山にも広がっていくことになる。

沢山 宏(最高裁申立人)

岩手県水沢農業高校出身、市川工場は青年労働者がわんさか集まった環境、労働運動の高揚の中で、船橋合唱団に参加し、文化運動の先頭で活躍。歌声サークルを作りお昼休み・作業終了後と、アコーデオンを担ぎ歌唱指導、組合集会や行動には欠かせない一人だったが、今はアコも蔵の中。
 趣味は渓流釣り、岩魚を求め山奥深くひっそりと固唾をのんで待つ、それがたまらなく至極の時間なのだそうだ。わっかんね〜だろうなと笑う。
争議団の活動も、東北人の粘りをいかんなく発揮し、何事にも動じずどこにでも足を運び訴えの先頭に立って奮闘。口癖は、「争議団なんだから動け」と、発破をかける掛け替えのない人物だ。
 一日でも早く勝利し、愛車を駆って全国津々浦々、自由奔放一人旅に出ることを願って頑張っている。「誰も連れて行かないよ!」と。

糸賀 久(都労委申立人)

 皆は糸賀さんのことを「キュウちゃん」と呼ぶ。半世紀も河内に住んできたのに、未だに出雲訛りから抜けられない一徹者だ。
 在職中は、明乳人権と民主主義を守る会の会長を務め続け、労働組合を「志宝会」に乗っ取られた後も、働く者の権利を守る運動の中心となって頑張ってきた。大阪職自連にも立ち上げから参加してきた。運動の発展のためだったら、少々のことでは文句を言うことは無い。糸賀さんには「黙々」という言葉が実にぴったりとあてはまる。
 2000年に定年退職すると同時に、八尾労連の専従になり、現在八尾労連事務局次長、中河内地域労組の執行委員長を務めている。驚いたことに、専従になると決まった直後から、パソコンに取り組んだ。まさに60の手習いである。何故か?本人は「わしの書いた字では、誰もレジメが読めんから」と言う。今ではちゃんとパソコンで事務処理をこなす。たまに出雲弁のまま入力し、変換されないことがあるとか。労働相談など大忙しの毎日である。

武田 和夫(最高裁上告人)

 彼は、昭和37年3月、北海道八雲高校を卒業すると同時に上京、明治乳業市川工場に入社。そのとき、一緒だったのが申立人である橋本勝男氏である。今でも二人は大の仲良しで三日に空けずお酒(焼酎専門)を共にしている。
 お酒には決して溺れることはないが、時間が進むにつれてお喋りは留まることを知らない。私などはただただ彼の話を聞くだけになってしまう。これで割り勘は、どうも納得がいかない。が、彼はそんなことは無頓着で昨日もしゃべっていた。きっと今日の飲み会もそうだろう。 
 市川工場に入社した彼は、七畳半の一室に4人が同居という社員寮での生活を克明に記している。三交替の勤務の中で今、寝る人あれば起きる人あり、というタコ部屋のような生活に自然と労働組合活動に傾注したことを素直に述べている。
 以来、定年までの長い間明治乳業によって差別され続けた一人である。
 友人の橋本氏が「彼は、学生の頃から正義感が強く、仲間がいじめにあったときなどは、何気なくかばっていた」などと当時を話してくれる。 性格は几帳面で論客でもある。
 また、市川支部がインフォーマル組織に乗っ取られてからも十年以上も職場代議員に選ばれるなど職場労働者からの信頼はとても厚い。 
 いまは、市川市の国民救援会の事実上の事務局長を担い、県の役員も兼務するなど、団でも地域でもなくてはならない存在である。

秋吉 孝一(都労委申立人)

 阿蘇外輪山のふもとで生まれ育った九州男児。九州男児に相応しく、学生時代は剣道、
書道を学んだ。おかげで八尾労連事務所の新年挨拶は、毎年みごとな手書きの挨拶が貼り出される。
 そんな青年が明乳大阪工場に就職すると、どこでどうなったのか休みになると職場の皆とバイクや自家用車を連ねて名所旧跡を巡るツーリングサークルをつくり、リーダー
となった。バイクにはちょっとうるさい。少々の修理なら全部自分でやってしまう。
 もちろん職場の先輩に学んで組合活動にも没頭し、定年後は地域労組の副執行委員長として、地域の労働者の相談にのって毎日奮闘している。組合事務所の水槽にはメダカが泳ぎ、季節ごとの花がテーブルの上に飾られている。竹細工で一輪挿しをたくさん作って、争議団の上京カンパにと提供してくれる。今では一徹な「融通のきかないガンコオヤジ?」だが、小鳥を愛し、花を愛し、自然を愛する彼のおかげで事務所らしくない
事務所が賑わっている。

松下 秀孝(機関紙・政策担当)

 通称「まっちゃん」は、東京・蒲田で生まれ長野(伊那カッペ)で育つ(疎開)、AB型、みずがめ座の68歳。高卒後、長野の山村で農業を継ぐが冬季は山師の飯場、土方仕事など経験。高度経済成長のはしり、農業一本では食べれないと、畜産関係の専門学校で「家畜人工受精師免許」「農業共済審査資格」等を持って、明治乳業市川工場へ入社。
 職場代議員・組合執行役員など活躍、要求実現に政策担当の一員として一貫して奮闘中。
 特に「試験室」係では、製品の「風味」検査は「まっちゃん」に任せろと全幅の信頼を寄せ事故を未然に防いできた功績の20年間、右に出る者はだれ一人いない。冷蔵庫職場の重量物扱いで「腰痛」に罹り、現在も不治の病となって苦しんでいるのが厄介。
 定年と同時に、東洋大へ入学し息子さんと一緒に学生生活を送り学問を追及した学者さん。今年の箱根駅伝優勝校代理監督・佐藤さんとは酒席を共にしていたと喜ぶ。
 住んでいる八潮地域で「9条の会」呼びかけ人、市川では「革新懇市川」、港区争議団議長と活動。
 90歳の母の介護と争議活動の二足のワラジで「足を引っ張っている」となげく。かたわら胃が痛むが「酒は百薬の長」とたしなみ治療に励む。希望は、早く争議を解決し足腰の立つうちに山や旅に行きたいと奮闘する「まっちゃん」です。

平木 洋一(稲毛浅間神社お神楽を伝えて25年)

「見ると聞くでは大違い」とはこのことか。
 募集案内と現実の職場環境の落差に愕然とした。以来、定年まで少しでも働き甲斐のある職場をと頑張ってきた。
 『赤・白』という分類された労務管理の中、「妻の病気療養中に受けた転向工作は決して忘れることは出来ない。」「どんな不当判決があっても会社の不当労働行為は誰にも消すことのない真実だ。」と静かに彼は言う。 決して雄弁ではないが、言葉はいつも優しい。そんな彼が入社以来一貫して揺らぐことなく、「みんなの為」を通して、厳しい会社の攻撃に屈することはなかった。
 地域の中にあっても25年前から稲毛浅間神社の神楽を継承し、いま子供たちへその伝統芸能を教えている。
 どんなことでも、彼の粘り強さは人並み以上だ。「俺のしつこさは明乳の労務管理が鍛えてくれたもの」と、明るく笑う。
 そして、誰もが信じられないくらい強く固い意志の持ち主でもある。

米元 裕(常任幹事)

 彼の故郷は地元千葉県である。千葉県は日本でも有数の温暖地で、おおむね県人の性格はとても穏やかである。
 彼も例外ではない。決して敵を作ることはないが、かと言って、物事に対して決して途中で放り出したりすることはない。
 争議団関東ブロックでの会議はいつも彼が進行係を務め、対立する意見を、巧みに収める。
 また、彼は千葉県争議団の議長を務める傍ら、全日本年金者組合明乳支部・支部長を担い、市川・浦安地域労連の事務局長も兼任し、多くの仲間から信頼はとても厚い。
 いまは亡くなった二代目会長加賀谷さんの参謀としても活躍した知恵者でもあり、今でも文字通り団の中心的存在である。
 住まいは千葉市のはずれ若葉区にあり、庭先で造る少しばかりの野菜などを争議団に配るばかりか、収穫した薩摩芋などで「芋煮会」などを行い、団員たちを喜ばせている。
 団の団結は彼なくして決して語ることは出来ない。
 争議の先は、まだまだ険しいが、彼が健康で元気であれば、多少の困難は物の数ではない…。

加藤 和彦(常任委員)

 全国申立人の最若手、それが加藤和彦こと「加藤ちゃん」です。夢をふくらませて明治乳業大阪工場に入社したのに「大阪では本採用になれない」と言われ、西宮工場に転勤、西宮では「工場閉鎖」と言われ京都工場へ、社会人のスタートから明乳の「合理化」の嵐に巻き込まれ鍛えられ続けて来た。おかげで少々の事ではへこたれないおおらかな活動家として成長した。
 卓球はインターハイ級の実力をもち、部屋には様々な大会の表彰状が額に収まっている。今でも各地でコーチを務め、指導にあたっている。かと思うと囲碁も相当なもの。
さらにはカラオケでマイクを握ると歌声で鍛えたのどが黙っていない。「千の風になって」など歌いだすともう止まらない。
 そんな加藤ちゃんだから誰からも好かれる。職場でもパートのおばちゃん?たちから絶大な信頼を得て来た。職場でも株主総会でもパートの時給引き上げを訴え続けて、実際に引き上げを実現させた。
 マイクを握ったら離さないのはカラオケだけではない。争議の宣伝行動でもマイクを握ったらとうとうと訴え続ける。「京都から誰れも申立しないのはあかん」と、ただ一人り起ちあがった義理も人情も厚い加藤ちゃんです。

神崎 和義(福岡工場申立人)
  
 昭和37年4月明治乳業福岡工場へ入社。大手会社ということで希望をもって職場へ入ってみると、日当300円、寮費6500円。残業がないと生活できないくらい低賃金であった。
 持ち前の明るさと真面目な仕事ぶりで、職場のなかでは「コウちゃん、コウちゃん」と慕われ、昭和40年代の労働運動の高揚期に積極的に運動に参加し、支部執行委員や職場代議員を務め、非正規社員の正規社員化等など、数々の成果を勝ち取りいつも運動の中心にいて活動していたコウちゃんでした。
 毎年保健所職員を呼んで食品衛生の学習会をしていた時、職員が「牛乳には一切添加物を入れてはいけません」と語った時コウちゃんは、職場が「試験室」だったため、原乳が酸度を増した時中和させるために「苛性ソーダ」を溶解投入し調整するように指示されてます。と発言すると、職員は「明治乳業さんはそんなことはしません、食品衛生法違反ですから」と。学習会は早々に終了され、後に、係長から呼び出され「君は一生冷飯を食うだろう」と職場から外され、草取り等職場を転々とさせられた。コウちゃんはそれにも負けず、労働条件の向上と食の安全を守るため、定年まで節を曲げずに一途に活動をしてきた。現在、福岡での宣伝活動、他の争議の応援に欠かさず参加しています。福岡争議団に欠かせない人となっている「コウちゃん」です。

伊達 修(大阪申立人)

 取県は米子市で旧家の三男坊として生まれ育った。皆は彼のことを「伊達やん」と呼ぶ。酒を飲んだ勢いでパトカーで家に送ってもらったなどの武勇伝もあるが、決して派手に立ち回ることが得意な方ではない。逆にいつも黙々と粘り強く事を処理する。
 そんな彼が「どんなに真面目に働いて努力しても、考え方を変えない限り昇給も昇格も望めない」と言う主任の一言に怒り、「志宝会」と一票を争った一番困難な時期に支部の執行委員や職場代議員を務め、奥さんに支えられながら今日まで粘り強く都労委での闘いを続けてきた。
 昨年手術を受け、その後も「じっとしていたら身体がなまる」と自分に言い聞かせながら行動を共にしてきた。今も思い通りに動けない悔しさを抑えて、陳述書を仕上げるため調子のいい時にはペンをとる。病気にも会社にも、「負けるな伊達やん!」

遠藤 力(関東工場申立人)

 福島県から64年上京、埼玉県にある戸田橋工場(現関東工場)に入社。組合活動が活発に行われていた時期で正義感が強い彼は迷わず参加していった。
 仲間からは「遠ちゃん」「力ちゃん」と慕われる。しかし、演歌が好きな彼は郷里出身の春日八郎にあこがれてプロ歌手をめざし、少ない賃金を貯めて歌謡学校に通っていた時期もありましたが喉を痛めて歌手の夢は断念。その後は組合活動と地域の活動に専念。
 現在は戸田市内ではカラオケの遠ちゃんの愛称で通っています。埼玉争議団の事務局長として「明乳争議をはげます戸田の会」の畔上さんとコンビで街角宣伝に奮闘中です。地域の活動でも中心的役割を担って頑張っています。

加藤 繁敏(市川工場:審問対策)

 愛称「カトチャン」は新潟県出身で、昭和38年に明治乳業市川工場に入社しました。
過酷な労働の中から労働組合活動に芽生えました。当時の労働組合市川支部は、青年労働者が圧倒的に多く文化体育部活動に力を入れる中で各種サークルもつくられました。 カトチャンは野球愛好者達で「ジャガーズ」というチームをつくり、キャッチャーのポジションでチームの要で活躍していました。
 カトチャンは、温和で決してことを荒げることもなくいつもニコニコと中を取り持ち、雰囲気を和らげ人への気配りもきめ細かく自然体で出来る好人物です。
 争議団の一員に加わり職場活動をするカトチャンに、ある職制が「立派な髭を蓄える」風貌に、お前の髭は10年早いと妬ましく思わせたエピソードもある。
 争議団の役割では、労働委員会、裁判闘争に欠かせない賃金格差の推移の整理や年度ごとの追加申立などの資料作成、併せて証人に必要な証拠関係の作成など地道な実務作業の中心的役割を一手に担っているカトチャンです。

高田 桂(大阪工場申立人)

 兵庫県は淡路島で生まれ育った「カツラ」こと高田桂さん。口数は少なく、上に二文字つけてちょうど良いぐらいの真面目男だ。そんな彼だから職場での信頼も高く、支部役員選挙では我々のグループから立候補した中で最高得票を得たことも一度や二度ではない。もの静かなところはいいが、その分頑固! 自分が一旦こうだと決めると、まさしく“一徹”、良しにつけ、悪しきにつけがんとして動じない。兎にも角にも一本気な男であります。
 そんな口数の少ない男がこと野球の話しになるとがらりと変わって止まりません。まさしく自分が「監督だったらこうする」、の話しが留まるところを知りません。

 若かりし頃は、大阪支部の野球サークルSSKKで活躍した彼も、最近は地域のソフトボール仲間の試合で二塁打でも打とうものなら、2塁ベースまで走るのが大変とボヤクことしきりです。さすがの頑固も歳には勝てませんか?

額賀 三男(市川工場申立人)

 茨城県鉾田市の高校を卒業して1964年4月明治乳業市川工場に入社。入社後は出荷事務所の業務を担当し、正義感が強く、やさしい人柄から事務課の女性をはじめ牛乳の配送車を運転する人達からも慕われていました。
 争議団では事務能力を活かして会計を長年にわたって担当し、厳しい争議団財政を切り盛りしている。
 地域では千代田区を担当し、行商活動の時期になると定期券を購入して通いつめるなど、粘り強い活動には定評がある。
 趣味は、フルマラソンに若い時から挑戦するなど、今でもジョギングは欠かさない。
 普段は、決して口数は多くないが、お酒が入るとうそのように雄弁家となる。お酒の強い団員の佐々木洋治さんとは良くツルンデ飲むが、決して深酒はしない意思の強さもある。
 団会議では、良く人の話を聞き、時として鋭い発言が飛ぶ。総じてやさしい男である

本田 静夫(大阪工場申立人)

 皆から「シズやん」と呼ばれ親しまれている本田静夫さん。鳥取県は伯耆大山のふもとで生まれ育った山男だ。いまでも「これが体力的にも最後かな?」と言いながら海外遠征に出かける。
 山男と言う言葉の印象とは全く逆に、実に細かく周りの人に心配りをする。八尾市のボランティア組織にも参加し、障害者登山にも毎年取り組む。山に登っているかと思えば次の日は「畑」で野菜作りに励む。その上に年金者組合の「パソコン教室」に学びながら、最愛の奥さんのために「料理教室」に通って勉強中でもある!
 日頃は余り感情的になる事のない山男が、今回の会社側証人の余りにも出鱈目な証言に怒って反対尋問の準備で大奮闘。大きな成果を引き出す力にもなりました。
 まあ、どこにいるのか判らないシズやんに連絡を取るのは至難の業。
 シズやんのカラオケは、五木ひろしの歌がとても上手く、よくみると顔もとても似ている。少々歳はとったけど、ただ今、青春まっただ中です。

杉山年男(都労委全国事件 関東工場(旧戸田橋工場))

 埼玉県北の山村児玉町の出身1939年生まれ。1955年明乳戸田橋工場(現関東工場)入社。
 早くから労働組合に関心を持ち、積極的に参加してきました。深夜勤務の導入など過酷な勤務形態が拡大するなかで職場要求を基礎にした労働組合活動が盛んな時期に執行委員として奮闘。青年婦人部としても「つり部」、「山岳部」で中心的に活動してきました。
 気さくな性格でオルグや集会など、どこでも気軽に出かけてゆきます。争議団や地域の宣伝行動では積極的にハンドマイクを握る貴重な存在です。
 また、地域でも信頼が厚く地元では医療生協のボランティアで活動しています。最近の趣味は山野草の収集、栽培でその知識は玄人はだしです。

佐々木洋治(市川工場申立人)

 宮城県小牛田出身、米どころの銘柄「ササニシキ」を自慢の一つに挙げる。
 明治乳業市川工場へ昭和38年入社。当時の冷蔵庫職場は、腰痛を罹災する者が多く、職場代議員となって、職場改善・労災認定などを掲げて組合活動を始める。
 愛称は「洋ちゃん」ですが、通称は、「赤提灯」は「ホルモン・ピンピン焼き」の店主に似ていることから「ぴんちゃん」そう呼ぶと、「オッ」と笑顔で応えてくれる。
 豊富な知識を持ち合わせ「芸能記者」を彷彿させるほど、話題が多方面にわたる、「雑学王」の「ぴんちゃん」でもあります。
 地域にあっても、長年自治会長を務め、住民要求実現の先頭に立ち、市民からの信頼はとても厚い。あの厳しい明治乳業で鍛えられた経験を思えば、なんでもできると笑う。

 仕事、活動の合間に、毎年愛妻を伴って旅行に出かけるのが心の安らぎとか。そして、旅の先々で必ず俳句を一句詠むのが趣味という。そのうち、「俳句集」が出版されるかも…乞うご期待。

門脇紀久(全国事件大阪申立人)

 「私が明治乳業大阪工場で働いた40年のなかで会社の意に背いたことがあるとすれば、それは職場の主任さんから『志宝会』へ誘われた時断った。それ以外に無い」と言い切る門脇さん。
 職場では皆から「かどやん」と親しまれている彼は、早くから職場の班長も務めた程真面目一徹な男として知られている。その仕事ぶりは几帳面で、頭に二文字がつくほど丁寧な事は誰もが認めるところだ。そんな彼だから新職分制度が導入された翌年には昇格し基幹職二級となった。ところが主任から『志宝会』への誘いを断ったとたんに会社の対応は一変した。それ以来30年間昇格もしないまま定年を迎えることとなった。
 「上手」に立ちまわることが出来ない「かどやん」は、ただ黙々と仕事に励み、働く者の生活と権利をまもるために組合活動も真面目一徹で自分の意思を貫いた。
 そんな「かどやん」だから、40年間の職場での出来事、勤務などきちんとメモをとり、給料明細も全部残して来た。公休の日に作業ミスをしたなどいい加減な会社の資料も、こと「かどやん」には通用しなかった。
 どんな人ごみに入っても「かどやん」を捜すのは簡単。他人より頭一つも背が高い。言ってみれば足の長い今風の男だ。そんな彼が今奥さんの介護をしながら、黙々と都労委でのたたかいを続けている。何をやっても真面目一徹!それが「かどやん」です。

大井十九一(市川申立人)

 北海道のほぼ中央、競走馬の育成で知られる早来町の出身。岩見沢の高校を卒業して1962年4月に明治乳業市川工場に入社。配送職場に配属になり、あまりにもひどい労働条件の中での仕事に、持ち前の正義感から職場代議員等を重ね、若干21歳で支部青年部役員となり、部長として活動した。
本人の話では、「十九一と云う名前は、昭和19年1月1日に生まれたので自分の誕生日を忘れないようにと父親が名付けた」とエピソードを語ってくれています。 愛称は、「トクさん」と慕われ、たまに、おーい「お茶」などコマーシャルが入る。
 定年退職後は、年金者組合明治乳業支部の書記長を創立時から務めており、争議団活動と合せて地域活動の中心の役割を果たしています。
 また、地域の卓球サークルは全国大会に参加するほどの強豪チームとなり、その先頭に立って今も頑張っています。

二瓶忠良(市川申立人)

 会津磐梯山は宝の山よ〜♪と小原庄助さんで名高い会津出身。何事も嫌と言えず引き受けてしまうオットリ型の二瓶チャン。しかも怒った顔姿を見たことない、すべて飲み込んでしまう性格のようだ。しかし、こと上司からの理不尽な扱いには毅然とした態度を貫き、仕事にも活動にも黙々と取り組むそんな彼だから信頼も厚く、職場代議員として要求活動の先頭に立ってきた。
 また、地域においても存在が広く、職場活動の経験など踏まえ信条をもって、日本共産党から市川市会議員に出馬し見事当選。それ以来議員活動に専念してきました。3期を務めあげ2011年の改選時に後任にゆずり、4月から争議団の闘いの一人として復帰、明乳本社前など宣伝マイクを握り訴える姿は頼もしい限りです。これまでの議員活動で培ってきた実績において、地域から要望があれば足を運び、争議団の行動と合わせての活動で飛びまわっている。争議解決の暁には、「朝寝、朝酒、朝湯」とまではいかないにしても、ゆったりとした時間がほしいようです。

広中正治(全国事件愛知申立人)

 愛知県渥美郡田原町出身の農家の三男坊が、日本一流企業と云う明治乳業愛知工場に昭和40年入社。冷蔵庫班や瓶装班などコツコツと仕事をこなし、技術講習会など参加させられずとも、面倒見の良い人柄から工務係から技術を取得し、職場の修繕などに役立てるなど仲間から「広ちゃん」と人望も厚く、平成18年定年、嘱託として3年働き退職した。
 冷蔵庫班で重量物を扱う仕事で腰痛になり、痛さに理解を寄せてくれた仲間と労働組合活動に目覚め、職場代議員として奮闘し支部役員選挙にも積極的に立候補した。
 また、組合の囲碁・将棋サークルや音楽サークルを通して労音活動に参加し職場や一宮地域で普及に走り回るなど文化活動にも力を注いで来た。消費税をなくす運動に参加し、会の役員になって奮闘もしています。
 市川事件の中労委への証人として、職分移行格付試験に合格するも、諸活動を忌み嫌う会社によって、18年間も同一職分に据え置かれてきたことを証言するなど、自らも、平成6年全国事件として都労委へ申し立て奮闘、絶対に「救済命令」を勝取る気概で頑張っています。

七枝 敏(大阪工場全国申立人)

 大阪の皆は彼のことを「ビンちゃん」と呼ぶ。九州は宮崎育ちの好男子である。スポーツ万能で野球サークルで活躍。会社はサークル活動を嫌い、練習日や試合の日に休みを取る事を妨害し、わざわざ別に野球部を結成してサークルにまで楔を打ち込んだ。
 「ビンちゃん」は仕事も活動も実に真面目にコツコツとこなす。そんな彼だから皆からの信頼も厚く、常に組合役員にも立候補し続けた。大阪での「思想差別裁判」では原告として十一年半たたかい続け、勝利和解を勝ち取った。そんな「ビンちゃん」が再び都労委
の申立人として頑張り続けている。
 日頃は物静かでコツコツの「ビンちゃん」がカラオケを歌い、一杯やりながら熱く語る姿は魅力だ。
 今は、信貴・生駒連峰を一つ越えた、大阪よりはちょっとだけ空気の良い奈良県で奥さんと二人暮らし。ゆっくりできるかと思いきや、奈良の皆がそうはさせてくれない。
 奈良の地元で単車を走らせて地域運動の毎日を送っている。

中島栄夫(市川工場事件)

1943年2月1日、山形県の農家に誕生。1963年10月、東洋一の乳業工場の宣伝につられて明治乳業市川工場に入社。
 配送職場、冷蔵庫職場、チーズ職場、乳飲料などをたらい回しにされながらもよく頑張って2003年に定年退職となりました。
 在職中は、劣悪な労働条件を改善させるために労働組合市川市部の職場代議員として諸要求実現のために頑張りました。会社が作った第二組合とも言うべきインフォーマル組織「明朋会」が、支部の役員を握るようになってからも毅然として職場代議員に立候補し、要求実現のために頑張りました。
 現在、争議団の大半が70歳を迎える歳となり彼自身も、体調の優れない日々もありますが、山場に差し掛かった争議勝利のために奮闘しています。
 また、明治乳業年金者組合では、機関紙係を担当して年金者組合の機関紙拡大に全力を上げています。組合の旅行には欠かさず参加して趣味のカメラで美しい風景を撮ったりしています。
 彼自身、次年度は古希を迎えます。何としてもそこまでには長期争議にケリをつけたいと奮闘中です。

森川章行(大阪工場全国申立人)

 大阪支部一番の「論客」と誰もが認める彼は、皆から「森ヤン」の愛称で親しまれ、仕事でも組合活動上でも大きな信頼を寄せられてきた。若い新卒の労働者が大量に採用された時期には班長でもあった「森ヤン」のもとで大勢の若い労働者が仕事を覚え、組合活動にも目覚めていったと言っても過言ではない。
 会社がインフォーマル組織「志宝会」を結成し、労働組合支部の乗っ取りのために執拗な攻撃を繰り返していた最も困難な時期に、志部長や書記長の重責を担って支部活動の中心として頑張り通してきた。
 昭和45年の選挙で大阪支部の役員体制が「志宝会」によって転覆させられると即座に、「森ヤン」は課長から「しばらく頭を冷やして来い」と言われ、港湾冷蔵という下請け会社に出向を命じられ職場の労働者から完全に切り離された。それでも支部の役員選挙に立候補し続ける「森ヤン」を会社は5年後に皆のもとに戻さざるを得なかった。
 平成9年「森ヤン」が定年を迎えるその年の春、会社は自ら設定した規定を捻じ曲げて、経過年数が1年不足している「森ヤン」を基幹監督職に昇格させざるを得なかった。「会社は罪滅ぼしのつもりかも知れんが、こんなことで許される事ではない」と怒り心頭の「森ヤン」だ。

山崎文明(市川工場申立人)

 通称「山チャン」と呼ばれている。
 彼は昭和37年3月、市川工場に入社。同期入社は全国から集められた高卒者をはじめ100名を超える。
 学校の教育としてスキーの授業がある新潟県生まれ、腕前は1級品で、冬ともなれば雪の少ない出身県の仲間たちを連れてスキー場へ。彼にスキーを教えてもらった争議団員も決して少なくない。
 また、夏には「海グループ」をつくり、毎年、家族を伴い素潜りで魚や貝を取りバーベキューなど自然の中で、仲間との絆を作ってきた。
 数年前には、食道癌を発症し、声が出なくなると心配していたが、全摘手術にも耐えみごと復活。今では持ち前の美声でカラオケを熱唱している。
 昔から口数の少ない無口な「山チャン」だが、発言内容は鋭く、「団会議」でも彼の発言に「ヤジや冷やかし」を聞いたことがない。
 また、やることは黙ってコツコツとこなす性格で、「頼まれたら嫌とは言わない」、男は黙って勝負するタイプだ。
 飲み会の席でも、アルコールなしで話に加わり共に楽しむ。

吉村 武(市川工場申立人)

 通称「吉さん」は、東洋一の明治乳業市川工場に夢膨らませ長野県から入社した。しかし、タコ部屋状態の独身寮や労働環境も劣悪な状態から、労働組合に目覚め職場代議員で要求闘争の先頭に頑張ってきました。彼の性格は温厚で、イヤと言えない真面目さ、後輩の面倒見もよく仲間の信望は厚かった。
 吉さんは、46歳のころ胃がんが発見され全摘手術、約半年位の療養生活を過ごし職場復帰を果たす。体重を回復するため極少量の食物を何回にも分けゆっくり摂取を繰り返しながら仕事に従事していた。特に、三交代勤務は本当に苦しかったと、家族や仲間に支えられ定年まで頑張り抜けたと振り返る。
  定年後は、ディサービスを利用する方の朝夕送迎を元気に行っています。 また、吉さんは指先の器用さを生かし、干支の木工細工や子供用の組木パズルなど作成し、近年、集いなどの会場で展示販売して争議団への財政活動に活かしています。
 争議団のオルグ活動は、松戸、東葛方面を専属に駆け回り、また、全日本年金者組合松戸支部に加入し執行委員として地域に根差した運動を進めている「吉さん」です。

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